身近な人の命のはかなさを実感し、運命のいたずらを

一昨夜、娘の誕生日祝いを兼ねて妻と娘と3人で久し振りに近くの店に夕食に出かけましたが、電話一本で私の人生で3人目(前妻、長兄、次兄)になる神の声「悪魔の宣告」を聞くことになりました。神の声は突如として現れる運命の悪戯か、定まった時間の経過と現象かは分りませんが、私は冷静にしかも、凍りつく胸の痛みを感じる数分でした。今回が2番目に厳しい癌の宣告でした。兄の寿命は後1ヶ月?「処置は出来ません、しません、自宅に戻るなりご自由にして下さい」とは。ああーなんと言う激しいが、無茶な命の最終宣告なのか。私は1週間前に、元気な声で彼と電話で話したではないのか?なぜ、何が、何処で起こり、このように−−−−。昨日、兄に会い手を握り、全てが現実であることを認識した。でも今、やはり信じがたいのが本当の気持ちであり、空しさや生きる事の難しさがぐるぐると頭の中で巡る。自分も同じような体質と環境にあるから、もう既に死の日は決まっているはずだと。眠れないので、今からこの事について考える事をやめる。私だけが残ること、次の宣告は私に下される、との不安は消えないが、全て運命と思い直し、冷静に自分自身のまわりのことを整理してみたい。
今日は癌で亡くした前妻の23回忌で、坊さんにお参りをして頂き、何度も聞いた言葉『それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、およそ、はかなきものはこの世の始中終。まぼろしの一期なり、さればいまだ万歳の人身をうけたりといふ事をきかず、一生すぎしやすし、いまにいたりてたれか百年の形躰をたもつべきや、我やさきや人やさき、けうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしづくすえの露よりもしげしといへり、されば朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり、すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこ、たちまちにとび、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそほいをうしないぬるときは、六親眷族あつまりてなげき悲しみども、更にその甲斐あるべからず、さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけむりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり、あわれといふも中々おろかなり、されば人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれのひともはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀佛をふかくたのみまいらせて、念佛申すべきものなりあなかしこあなかしこ』願似此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安國、なむあみだぶ。